【前編】食べられない状態が続く「イートロス」の重要性に医師・歯科医師の視点から注目

近年の医療分野では予防や抗炎症に対する考え方が少しずつ変化しつつあり、「食べる」という機能が改めて注目を集めています。食べられない状態が続く“イートロス”を予防することは、 “フレイル”や“サルコペニア”と並んで健康活動を続けていく上で欠かせません。そんなイートロスの概念や我が国の実態、産業界を含む“医市連携”という新しい市場創成について、医師であり歯科医師でもある東京大学大学院医学系研究科の米永一理 特任准教授に伺いました。

食べられない状態が続く「イートロス」を知る

米永先生は「食べる」ことを中心とした諸問題や企業連携について研究を重ねるほか、講演会や社会システムの構築などに向けて積極的に活動なさっています。これを研究なさろうと思われたきっかけについて教えていただけますか?

私が「食べる」ことについて研究を始めた背景には、医師と歯科医師、2つの診療経験が大きく影響しています。はじめに歯科医師として食べるための機能や噛み合わせに対し、悩みを抱える患者さんを診てきました。続いて医師として総合的な診療をしていく中、食べられないことに悩む患者さんがとても多いことを知りました。例えば、抜けた歯に対して義歯を作ったとしても、簡単に食べられるようになる訳ではありません。なぜなら、色々な要因があって食べることを難しくしているからです。

健康で仕事をしているうちは、むしろ食べ過ぎや痩せるために何かしら頑張っている人も多いでしょう。しかし、歳を重ねて筋肉量の減少を示す“サルコペニア”の状態となってから食べることに意識を傾けても、思うように回復は見込めません。
そこで、そもそも「食べられなくなることが良くない」というのを多くの人に知っていただくために、これを研究することにしました。

新しい概念、“イートロス”について教えてください。

イートロスというのは造語で、一言でいうと食べられない状態が続くということ。定義としては今まさに、「体重のどのくらいの割合で何日間以上に渡って必要な摂取量の何割ほどしか摂れない状態が続く」というような定義付けを行っている最中です。
令和2年の「厚生労働白書」によると我が国の生存割合は依然として伸び続け、2040年には男性の約4割が90歳まで、女性の約2割が100歳まで長生きすると見られています。こうした長い人生の中で出来るだけ治療を必要とせずに健康活動を続けていくためには、3つの予防に取り組む必要があるでしょう。

ひとつはこのイートロス、2つ目は虚弱の状態を示すフレイル、そして3つ目は筋肉量の減少を示すサルコペニアです。これらのうちイートロスは他と重なる部分もありながら、根本的に「食べる」ということに特化しているという点で、その考え方は異なります。

既存のサルコペニアやフレイルは、何かしらの不調や症状がある状態だと聞きます。
では、イートロスは健康あるいは不健康のどちらの状態でしょうか?

イートロスは健康そうに見える“健康様”という状態で、本人も気付いていません。しかし、進行すると“低栄養”の状態へと移行するため、早くに対処することが大切です。

これまでのヘルスケアは「健康」か「病気」かの2つで考えられていましたが、これからの時代はこれに「軽度心身不調」と「未病」を加えた4つで考えていくことが求められています。要は、健康と病気は完全に二分されるものではないということ。例えば、「軽度心身不調」は検査で異常がなくても、“何となくだるい”や“気持ちが乗らない”と感じるような状態です。対して、「未病」は検査で異常があるものの発病していない状態を指します。

このうち「軽度心身不調」は“食と生活習慣”で対応できるものと内閣府バイオ戦略2020で提言されており、これによって“食”でコントロールすることが如何に重要であるかが示された形です。

この概念が生まれた背景には、どのようなことがあるのでしょうか?

この背景にあるのは、我が国の2040年に想定されている85歳以上の人口とその死亡数の増加です。1990年に全体の1%に満たなかった85歳以上の人口の割合は2019年ではおよそ5倍、2040年にはおよそ10倍に膨らみ、これにより死亡数も年々増加します。その死亡数は1990年(約79万人)と2040年(約170万人)で比べると、およそ2倍に(令和2年版 厚生労働白書)。それに伴って介護人口も大幅に増えるということは免れません。

したがって、要介護状態に高い確率で移行することが我々の研究で分かってきたイートロスに対して、今すぐにでも多くの国民に周知していく必要があります。また、もし兆候がある場合には早期から介入することが、健康寿命を延ばす上でも重要です。

イートロスと死亡数の関係について教えてください。

まず、死亡する要因の多くが“カヘキシア”という、急速に痩せることで全身における骨と皮膚の比率が高くなり機能することがむずかしくなって亡くなるものです。これは、半年間に5%以上もしくは1年間で10%程度、体重の減少があるものと定義されています。

例えば、“がん”では身体の中に多くの炎症が起こっていることで、食べた栄養はどうしてもその炎症部分に集中してしまうもの。若い人ならまだしも、高齢者でこの状態になると元の筋肉量に戻すことはむずかしく、既に寝たきりで介護を要する人も多いでしょう。
そしてこの“カヘキシア”に進む前の段階が“低栄養”で2040年には600万人に、さらに“低栄養”のひとつ前の段階であるイートロスは1,000万人に上ると見られています。これらの多段階を経ていずれ不可逆的に進行するトラップの最も上流にあるイートロスへアプローチすることは、我が国の超高齢化社会におけるニーズへ対応していくために欠かせません。

“健康に良い食”は 525兆円の有望な市場に!走り始めた「イートロス産業」

イートロスに対して産業界がアプローチしていくためには、どのようなことを基本として抑えておく必要がありますか?

まず前提として、人には苦痛と欲がそれぞれ3つずつあることを念頭においてください。
苦痛とは、「とう痛(痛み)」と「うつ」、そして「カヘキシア(イートロスの下流に位置)」です。このうちカヘキシアだけが未だ、ガイドラインや治療方法が定まっていません。一方の欲とは、「食欲」と「睡眠欲」、そして「排泄(はいせつ)欲」です。この中で食欲だけが、誰かの手を借りないと出来ません。

つまり、まだ医療でも解決しきれていないこの「カヘキシア」と「食欲」に対し、産業を持って如何にアプローチしていけるかが課題となってくるでしょう。食べられない状態に陥る前に、多くのアイデアを形にしながら生活者における意識の向上に寄与し、行動変容を起こせるかが重要です。

国や医療業界ではこのイートロスに関する産業の発展を、どのように見ているのでしょうか?

今、国家戦略でいわゆる“トクホ”などの機能性をもつ食品に関する民間認証制度の開始が検討されているところです。これにより、健康活動をおこなう上で最も重要な食を担うヘルスケア産業は、これからの日本を引っ張っていく一大産業に成長するかもしれません。これについて国は、“健康に良い食”がつくる市場は2030年には525兆円に達するだろうと予測しています。

また、近年では医食同源という言葉にあるように、“食”を“医薬”とともに扱う方向性が色濃くなってきました。ここで、歯科業界においては1980年代からすでに“予防歯科”として「8020運動」※なども広く知られ、医療の中に予防を含むという考え方があります。一方の医療業界では、「診療と治療を行うことが医療」とされる昔ながらの考え方が根強く、予防は医療に含まないという考え方もまだ一部で残っているかもしれません。
医学の進歩により、がんや生活習慣病を含む多くの疾患が様々な炎症からひき起こされているというメカニズムが解明され、これに対する予防が注目を集めています。つまり、これからは医療業界においても、診療や治療とともに予防と抗炎症へ目を向けることが欠かせないということです。

※「8020運動」(ハチ・ゼロ・ニイ・マル運動):1989年に厚生労働省(当時の厚生省)と日本歯科医師会が提唱して開始された、「80歳になっても自分の歯を20本以上保とう」という運動のこと。

イートロス産業に関して、産業界が担うのは具体的にいうとどのような部分でしょうか?

イートロス産業で大切なのは、食べる機能で前後に抱える諸問題も同時に見ていくことです。現代社会では認知機能低下などの精神心理的な問題や、独居や人間関係が影響を及ぼす社会的問題、さらには加齢などによる様々な身体的問題を踏まえた上でニーズを満たさなければなりません。その一連には食材の確保から調理、食欲の維持、そして食べたあとの排せつや片付けまで、どの部分も滞ることのないようなアプローチが必要でしょう。こうした多面的なニーズを随所でアプローチできるような産業の介入が期待されています。

そこで、最近よく私が言うのは、“医市連携(いしれんけい)”という言葉(造語)です。この中の“医”は医師を含めた医療従事者。そして“市”は、市民(住民)と市場(産業)と市政(行政)を意味しています。今ではよく、“多職種連携”といって医師と他のメディカルスタッフが連携することで患者さんをより良い治療へと進めていくことが言われていました。しかしこれからの時代は、より多くの関係者が一丸となって国民ひとり一人の健康活動を支援していくことが必要です。

そのためには産業界と医療業界、双方向の連携が欠かせません。決してどちらかが上位というものではなく、それぞれの担うパートに取り組みながら互いに意見し合い、一人でも多くの国民がイートロスに陥ることのない環境づくりが重要です。さらには地域ごとの格差をなくし、どこに居ても正しい情報を得られるような環境配備を行うために行政の介入も欠かせません。

<インタビュー後編はこちら>

米永 一理 先生 プロフィール

東京大学大学院医学系研究科 イートロス医学講座 特任准教授。鹿児島大学歯学部卒業後、東海大学医学部卒業。博士(医学)(東京大学)。東京大学顎口腔外科・歯科矯正歯科助教、十和田市立中央病院総合内科医員、JR東京総合病院総合診療科医長、十和田市立中央病院附属とわだ診療所院長を経て、2020年4月より現職。「食べる」を支える活動を総合的に行っている。


ウェルネス総研レポートonline編集部

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