【注目書籍】脳の神経細胞(ニューロン)は、競い合いながら再編成を繰り返す

脳内は、ものを見る「視覚野」、音を聞く「聴覚野」、体を動かす指令を出す「運動野」というように役割ごとに分けられ、分業をしながら働いています。しかし、それらは固定化されたものではなく、絶えず回路を書き換えながら、物事を実行する能力を最大限に高めているのです。
『脳の地図を書き換える 神経科学の冒険』(デイヴィッド・イーグルマン著 梶山あゆみ訳/早川書房)には、脳内が再編成された奇跡とも呼ぶべき驚きの実例がいくつも紹介され、脳の神秘と人間の未来へ希望を抱くことができる一冊です。

脳は損傷した部分を別の組織が補う

著者であるデイヴィッド・イーグルマンは、スタンフォード大学で「脳の可塑性」を教えている神経科学者。「脳の可塑性」とは、例えば、もしも片側の脳が損傷してしまったとしても、残った反対側の神経細胞がその代わりに指令を出すようになるという現象です。

本書には、「脳の可塑性」を現すさまざまな実例が登場します。

例えば、発作を起こして意識をなくし、唇も青紫色に変わってしまった3歳のマシューという少年の例です。意識をなくしたりひきつけを起こしたりといった発作が3年以上続き、入院退院を繰り返しながら、ようやくわかった病名が「ラスムッセン脳炎」。この病気でマシューのような状態には、脳の半分を切除しなければならないと宣告され、両親はその手術を決断しました。

手術後、排便や排尿を抑制することができなかったり、歩くことも話すこともできなくなったマシューですが、理学療法と言語療法を続け、3か月後には年齢相応の発達段階に達し、何年か後には右手と足が少し不自由なほか、傍目には脳が半分ないことなどわからない状態になったそうです。そして、大学にも入り、レストランで働いて、電話応対も接客も何でもこなしているのだとか。

この例は、まさに脳の可塑性。残された脳が自らの配線を変え、失われた機能を別の領域が肩代わりしたために起こったことなのです。

イーグルマンは、脳の変化をライブワイヤリング(live wiring)と表現します。「私たちはライブワイヤードな生物だ。脳内のニューロン(もっと広くいえば体内の全細胞)は生存のための果てしない戦いの中にいる」とし、「ライブワイヤリングは若者だけの特権ではなく、命のある限りやむことはない」と言います。

ライブワイヤリングを東京大学医学部の今野大地医師は、「世界の変化に適応するために、常に自らを再構成し続ける性質」と訳します。

レイ・チャールズ、スティーヴィー・ワンダー、ダイアン・シューアなどのように、両目の視力を失いながらも音楽の世界で花開いている例は枚挙にいとまがありません。誰でもスターになれるわけではありませんが、視力がないことで脳の再編成は間違いなく起こり、絶対音感を持つ割合が大きいのだそうです。聞くという作業に割り当てられた領域が広くなり、微妙な音のふらつきを聞き分ける力も最大で10倍近いのだとか。

聴覚を失った場合も、かつて「聴覚野」だった脳組織が、別の感覚を担当するようになり、周辺視野への注意力が高まるのだそうです。

視覚野を乗っ取られないために、人は夢を見る?

人間の遺伝子は2万個程度、脳のニューロン(神経細胞)は860億個。2万個程度のちっぽけな数から、どうやって途方もなく複雑な働きを組み立てているのか? それが「ゲノムが実行する賢い戦略」とイーグルマンは言います。

生まれたばかりの脳は著しく未完成であり、完成させるにはさまざまな学び、模倣、経験を繰り返していかなければなりません。そこに生きていく環境などが加わり、目的や念願を叶えようとしながら新しいデータを積み重ねていきます。

新しいデータに触れる機会が与えられると、そのデータが自分の目標と結びついていれば、脳はできるだけそれが反映できるように自らの回路を再編成します。

テニスに喜びを持ってプロになりたいと練習を重ねれば、運動野が広がり、どんどん試合に勝っていけるようになります。たとえ足が動かなくなったとしても、自分の思いと練習によって、かつて走ったり歩いたりした脳内の足の領域は、腕の領域に併合されていくというのです。

そのように脳内では、いつでも他の領域を乗っ取れるように、それぞれの神経が虎視眈々と狙っています。そこで注目されるのは、「なぜ夢を見るのか」という疑問です。
イーグルマンは、もしかしたら寝ている間に、視覚野が乗っ取られるのではないか? そう考えた視覚野が、眠っている間も後頭葉を活動させ、乗っ取られるのを阻止しているのでは? 「そのために夢が存在する」というのが、イーグルマンの仮説です。

ちなみに、年齢とともに夢が現れるレム睡眠の長さは減少するのだとか。赤ん坊の脳の可塑性は大人よりはるかに高く、領土争いがそれだけ熾烈であるというのも、未完成だった脳に徐々にデータが加えられていくことと比例します。レム睡眠の時間が長い幼児期は夢をたくさん見て、高齢になればなるほど夢は見なくなる。どうでしょう? 思い当たりませんか?

イーグルマンは言います。「もしも仮説の通り(眠っている間に視覚野が乗っ取られる)なら、遠い未来に人間が、夜が短い星に住めば、夢を見ることはないのではないか」と。この研究の答えは、遠い未来の人間が星に住むようになるまで持ち越されるのかもしれません。

ライブワイヤードな脳の研究が、将来の人間の生活を快適にする!?

アメリカでは、カソリックの修道女数百人を数十年にわたり追跡調査して、脳の加齢とアルツハイマー病についての研究を行っていました。その研究で、近年、驚くべき結果が得られました。

修道女たちは、全員が認知機能の定期的な検査を受け、医療記録を研究者に開示し、死後は検体として脳の提供をするという約束をしています。その同意のもとに死亡した修道女の脳を解剖したところ、何人かにアルツハイマー病が見つかりました。しかし、その修道女たちは生前、認知機能に衰えはなかったというのです。それどころか頭の回転も早かったのだとか。

その鍵は、彼女たちが常に頭をつかって職務を全うし、人付き合いも議論もすることで、脳に絶えず橋をかけさせていたことにあります。相当な高齢になっても、常に頭を使っていれば、衰えた部分を回避して新しい接続が育まれるというのです。

そのように生物の脳は、どこかの機能が使えなくなっても、別の機能で代用できるようにライブワイヤリングしますが、ロボットにも同じことをさせられるのでしょうか?
ロボット工学者の多くは、より人間に近いロボットや人間の役に立つロボットを生み出すため、人間の脳の研究を応用すると聞いたことがあります。

ライブワイヤリングの原理を使えば、高性能なロボットを作ることができ、自動運転車も惑星探査車も、チップも送電網も格段に能力がアップします。

特に、イーグルマンは生物から得たヒントを建築で利用することを期待します。ビルが自らの建物の中にあるトイレへの人流を感知したら、小便器や蛇口、配管などの数を短時間で増やすことができれば……。不測の事態で家の一部が壊れたら、自動的に電気配線が伸びて部屋に入り込んだり、電子機器を再配置したりできたら……。

ビルが自ら位置を変えて、日当たりや自分の作る影、水へのアクセス、受ける風量などを絶えず調整できるとしたら……。自然災害によって壁が崩れてしまっても、屋根に穴が開いても、生活が続けられなくなることはなくなるかもしれないのです。

脳がどういう原理のもとに働いているかが解明されていけば、AIでも建築でも、宇宙に関わるさまざまな分野でも応用ができるようになるはずです。その研究は多くの人間のためになるに違いない! 読後はそんな将来への希望と期待で胸が膨らむ一冊です。

【書籍情報】
『脳の地図を書き換える 神経科学の冒険』(デイヴィッド・イーグルマン著 梶山あゆみ訳/早川書房)


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