ブレインウェルネスにおける「五感」攻略の重要性

ヒトや動物が世界を認知するために必要な感覚のなかで主なものは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚です。これらは合わせて五感と呼ばれますが、現代のヒトは視覚と聴覚への依存度が高いとされています。もちろん、嗅覚や味覚、触覚も大切な感覚であり、5つの感覚が統合されてこそ、優れた認知能力が発揮されます。

幅広い選択肢がある現代の食品には、単に栄養を摂取する手段としての域を超えてウェルビーイングを実現していくための重要な役割を果たすことが期待されています。今回は杏林大学の古賀良彦名誉教授に、五感の中でも特に嗅覚の機能と、食品産業におけるその活用法について伺いました。

精神科医が五感のうち嗅覚と脳の関係に注目した理由

古賀先生は臨床の場で患者さんを診察なさる一方で、さまざまな研究を手掛けられています。
これまでのご研究と、とくに嗅覚について関心を持たれた理由を教えていただけますでしょうか。

私は精神障害が生じる背景にある認知機能障害を脳機能の変化として捉える目的で、脳波分析や脳血流測定などの脳機能画像法を用いて研究してまいりました。そのような研究を進める中で、精神障害の有無にかかわらず視聴覚以外の感覚情報が脳で認知されるプロセスについても興味を持つようになりました。とくにヒトや動物の生存の可否にかかわる重要な機能を果たす嗅覚については未知の部分が多く、ぜひ研究を行ってみたいと思ったわけです。

それでは、ヒトの嗅覚を研究される中で、どのようなことに注目されていますか?

嗅覚の役割のなかで重要なことは危険の察知です。ヒトでも他の動物でも、鼻は身体の一番前に位置しています。鼻の穴は常時開放されていて、他の動物や植物の匂いは常に脳から鼻の奥に達している嗅神経で感知され、ただちに脳の嗅覚中枢へと伝達されます。脳はその匂いを発した生物が危険なものか否かを瞬時に判断します。その結果に従って、ヒトは匂いを出した主を襲って食べてしまったりします。逆に、危険な相手と判断されれば、急いで逃げだすという行動をとるわけです。

このように、嗅覚は動物にとって自分の生死にかかわる非常に大切な情報を提供してくれるわけです。しかし、ヒトでは嗅覚はそのような役割を必ずしも果たしていません。驚くべきことに、嗅覚を失っても、ヒトの生死にかかわる事態に至ることはほとんどありません。その意味では、ヒトでは嗅覚機能は退化したという考えがあっても不思議ではありません。

ヒトの場合、匂いは「香り」として香水やエッセンシャルオイルを愉しんだり、味と一体となりフレーバーとして利用されることが現在では多くなっています。

ヒトは他の動物とはかけ離れた高い知能を有しています。これは大脳新皮質といわれる認知、判断、行動という高度な機能にかかわる部位が特異的に発達しているからです。そのとびぬけて大きな新皮質こそが、ヒトが文化や文明を創造し発展させてきました。よく、チンパンジーは賢いといわれますが、彼らは100年前も今でも全く同じ生活をしており、火を使うことも覚えず、コンピューターを発明することもありません。彼らの大脳新皮質、とくに中枢中の中枢といわれる前頭葉は、ヒトとは比べ物にならないほど小さいものです。

ヒトの脳は、発達した新皮質が五感の統合と意思や意欲を司って高度な知的機能を発揮しています。情緒を司る部位はその機能に彩りを加える過程で、認知、判断、行動というプロセスは整然と遂行されます。嗅覚はその彩りの機能の中で、大切なはたらきを演じています。ヒトにおけるその嗅覚の役割をぜひ研究してみたいと思っているわけです。

研究の詳しい内容や成果について教えてください。

身近な香りでは、コーヒーについての研究を行いました。その独特な香りは、少なくとも800種類を超える成分の香りが重なり合うことで特徴を示しています。しかも、豆の種類によって成分は異なっています。あまりにも成分が多いため、どの成分がそれぞれの豆の香りや味わいに強く反映されているかを調べるのは不可能です。

私は、香りの微妙な差がヒトの脳に対してどのような影響を与えるかを調べるため、ヒトでコーヒーの香りを嗅いだときの脳波を測定分析しました。すると脳の働きを活性化する香りや、反対に脳の働きが穏やかになる香りがあることが分かりました。たとえば、グアテマラやブルーマウンテンの香りは脳波のα波を増やす作用があり、リラックス効果があることが明らかになりました。α波は脳が安定して機能していることを示す指標です。一方、ブラジルサントスはP300という脳の感覚情報処理の速さを反映する脳波分析の結果から、脳を活性化する働きがあることもわかりました。これらの結果から、ヒトは香りを詳細に分析する能力を現在でも有しており、嗅覚機能は退化などしていないことが明らかです。

出典:小長井ちづる 古賀良彦 :食品の香りが脳機能に与える影響の生理学的評価. AROMA RESEARCH vol.6, No 4, p.326ー333(2005)

6種類のコーヒー豆の香りを嗅いだ時のα波の量を無臭の蒸留水と比較したもの。
図で赤色ないし赤褐色で示した部分がα波を示す。グアテマラやブルーマウンテンは蒸留水と比べα波の量が明らかに多い。

ブレインウェルネスを求める現代人には五感に対する訴えが必要

“ストレス緩和”などが注目を集める昨今、現代人にとって五感に関する研究はどのような意味を持つとお考えでしょうか?

ストレスの緩和ないし対処は、現代においてヒトが心身そして社会的に健康であるために取り組むべき大きな課題の一つです。そして、その対処の延長線上にあるのがウェルビーイングです。

食品は、摂取することによって栄養を補給するだけの行為ではなく、目で見てそれを愛でるだけでも食欲が喚起されます。さらに、フレーバーとして香りや味わい、そして舌ざわりなどの食感が加わることにより、おいしさという得も言えぬ悦びの感覚が生じます。食品のおいしさは記憶に刻まれて、長時間持続するという特徴があります。

ストレスが蓄積するのを防ぐには、ストレスが生じて間もないうちにそのことを忘れさせてくれるような素晴らしい体験をするとよいと言われています。五感をバランスよく刺激することにより生じるおいしさという体験は、ストレスの対処法としての条件を満たしていると考えられ、それはウェルビーイングの実現に寄与するものです。

特定の香りや食品は、認知症予防につながる可能性はありますか?

認知症の発症に関わる脳内のプロセスの解明が進み、おそらく数十年のうちに認知症の経過に非常に有用な治療薬が開発されると予測されます。しかし、食品や香りが薬のように直接認知症を予防したり治療することが可能になると考えるのは現実的ではありません。

一方、認知症患者さんのウェルビーイングについては、香りや食品に一定の効果を期待することは可能です。述べたように、おいしさという他に比肩するもののない楽しみを食品は与えてくれます。おいしい食事を摂ることにより、認知症の患者さんが日常の生活の中で悦びや潤いを感じることが、ウェルビーイングを果たすことに役立つと考えられます。

今後、匂いと脳の研究によって解明したいことや課題について教えてください。

認知症のような病的な状況のみならず、食品によるウェルビーイングはあらゆる世代にとって有用な手段です。例を引くと、30歳から40歳台の働き盛りの年齢にとっては、食品によって上手にストレスを緩和することによって生産性の向上を得ることによって積極的に余暇を楽しむことができれば、さらに質の高いウェルビーイングの状態を持続的に獲得することができると思います。

ウェルビーイングの状態を持続可能なものとするには、個々のユーザーの事情に応じた対応法を提供していくことが必要です。食そして香りを軸として、その方法を開発することを楽しみに研究していきたいと考えています。

食品産業で「香り」と脳の関連性を戦略に活かす方法

香りや嗅覚に関する市場について、どのようにお考えでしょうか?
また、ウェルビーイングをめざした食品の開発に向けての食品産業への提案をお願いします。

我が国では平安時代から香木を焚くことが愉しまれており、室町時代には香道という心の昇華法として発展を遂げました。アロマテラピーは近年日本でも関心を呼び、今では文化として定着しました。しかし、エッセンシャルオイルそして香水にしても、市場の規模は大きいものではありません。市場を拡大するブレイクスルーとなるためには、述べてきたようにウェルビーイングの状態を築き持続させるための軸となる方法のひとつとしての食品の活用を、マーケティングから販売に至る過程で系統的に企画していくことだと思います。ただ、その場合、ユーザーには食品を受け身的に摂取するのではなく、自身のウェルビーイングを果たすことを明確な目的として積極的に利用することを求めるべきでしょう。さらに、その前提として、ユーザーが自身に合ったウェルビーイングのイメージをしっかりと定めるようなインストラクションを分かりやすく提供することが必要です。

食品産業の戦略としては、その実現への方法と意義、そして食品の重要性をユーザーにしっかりと理解していただき、具体的にその手段を与えていくべきです。それは、実はそれほど難しいことではありません。私たちが自分の心や身体、社会的な状況に配慮しながら、料理を作るということをモデルにすればよいでしょう。ウェルビーイングという素敵な料理を仕上げるために、五感を研ぎ澄ませ、楽しみに料理をし、出来上がった食事を摂って十分に満足感を得る。そのことが、クリエイティブな生活を持続することにつながっていきます。方略としては、それを獲得し持続するのための方法を具体的に提案すればよいのだと思います。

古賀良彦 教授 プロフィール

杏林大学 名誉教授。1971年慶應義塾大学医学部卒業、1976年杏林大学医学部精神神経科学教室入室。杏林大学医学部精神神経科学教室助教授を経て1999年から同教室主任教授。2016年から現職。うつ病、睡眠障害、統合失調症治療・研究のエキスパートとして日本催眠学会名誉理事長、日本薬物脳波学会副理事長、公益社団法人日本アロマ環境協会顧問、(株)MSブレイン顧問などの要職を務めている。アロマテラピーや食品、ぬり絵の効果を脳波分析や脳機能画像を用いて検証し、臨床や日々の生活への応用を試行している。


ウェルネス総研レポートonline編集部

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